効率重視からゆとりの重視へと生活大国を目指す日本。余暇時間の拡大とともに、積極的にレジャーを楽しむ気運が高まってまいりました。中でも、観光旅行は国内、海外を問わず、大きな人気を得ております。
かえりみますと、わが国の観光旅行のルーツは江戸時代に遡ります。参勤交替、お伊勢参り、湯治など、元禄時代には年間400万人もの人が東海道を往来したといわれております。その当時、欧州では旅行が貴族のものであったことを考えますと、日本の旅の大衆化は世界でもまれな現象といえるでしょう。
現在、国内観光旅行は6千万人時代を迎え、日本人の余暇活動としては最も親しいものの一つとなっております。このような時代背景の中で、当社の観光サービス事業は創業以来、多くのお客様からご愛顧をいただき、順調な発展を続けてまいりました。今後とも、お客様の多様なニーズに対応した個性あふれる旅のプランを提案して、「ゆとりと豊かさ」の実現に貢献してまいります。
この物語の主人公山岸博之氏(以下敬称略)は、地元の十日町高校から東京農業大学(以下東京農大と略)へと進学し、あの東京箱根往復大学駅伝競走、通称箱根駅伝(以下箱根駅伝と称す)を第六六回から第六九回までの四回に亘って、一区、三区、七区、九区と走った経験がある。その後フルマラソンへ転向し、自衛隊体育学校のアスリート隊員として、オリンピック選手を目指し、フルマラソンに打ち込んだ経験の持ち主であった。
そんな元陸上競技のアスリートが父親の経営する森宮交通を継ぐ決心をして、古里へ帰ってきた事で長野県と新潟県の県境地方の抱える問題点に果敢に挑んでいく事になるのであった。
この物語はそんな主人公、山岸が父親から引き継いだ森宮交通と、人口減で活気がなくなってしまった古里を何とか活性化したいと思い奮闘するセミドキュメンタリー小説である。
この地域の宝物である日本三大薬湯(松之山温泉)や日本三大渓谷(清津峡)がありながら、なかなか世の中に認知されないというジレンマで、自身が中心となって、長野県と新潟県にまたがる地域を『奥信越』と命名してドローンで撮影した鮮明な動画を、ホームページに掲載し自然豊かで素晴らしい景色を配信する等、可能な限りの挑戦を試みているのである。
そして、今度はオーダーメイドのセミドキュメンタリー小説で自身の取り組み等を紹介する事にしたのである。
新潟県には著名な文豪が愛した宿が数多くある。中でも最も有名なのは、ノーベル文学賞受賞作家の川端康成が三年間逗留して、小説「雪国」を執筆した越後湯沢温泉ではないだろうか、そしてその川端康成に並ぶ文豪、吉川英治が一か月逗留した宿が秋山郷の逆巻温泉という秘湯である。
吉川英治は、「宮本武蔵」「新・平家物語」等の歴史小説が代表作である。同じ様に歴史小説の大御所山岡荘八は、新潟県小出の出身で代表作は「徳川家康」全二六巻という大作を残している。
他にも小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と親交のあった会津八一、坂口安吾なども新潟を代表する文豪といわれている。
この物語の主人公、タクシードライバーで温泉ソムリエの資格を持つ山岸博之は、長野県と新潟県の県境で森宮交通という地域密着型の小さな旅行会社を経営しながら懸命に地域の活性化に取り組んでいた。
温泉ソムリエの資格を社員達にも取得してもらい、タクシーでただ単に送迎するだけでなく、直ぐ近くの日本三大薬湯である松之山温泉が、なぜ同じ三大薬湯である『草津温泉』『有馬温泉』と並び称される、三大薬湯のひとつなのか?等を温泉ソムリエとして専門知識を交えて解説していた。
温泉には江戸時代、明治時代から相撲の番付に擬(なぞら)えて横綱、大関、小結という様に番付表なるものが存在する。
そして今でも東の正横綱『草津温泉』片や西の正横綱『別府温泉』と言われている事等を湯けむりタクシーの中で語っていた。
この湯けむりタクシーの運転手兼温泉ソムリエで更に、森宮交通社長を務める山岸博之は父の後を継いで森宮交通の社長となる前は、フルマラソン選手としてアトランタオリンピックに出場を目指すトップアスリートであった。
ここから山岸が四回の箱根駅伝出場を経て、なぜ自衛隊体育学校所属でアトランタオリンピックを目指す事となったのかまで遡ることにする。
山岸がマラソン選手となる発端となったのは、一九八七年新潟県郡市対抗県縦断駅伝で高校生ランナーとして、十日町市代表で走った事であった。
この年の一〇月二四日、二五日両日、郡市対抗新潟県縦断駅伝二連覇を掛けて十日町市は盛り上がっていた。そんな中、山岸は高校生ランナーとして一区を任された。
そして、山岸が選手として出場した十日町チームは見事優勝して、二連覇を成し遂げたのである。これで勢い付いた十日町高校は、高校生駅伝新潟大会で男女ともに優勝し、全国大会へと駒を進めた。
この高校駅伝全国大会では、十日町高校は四七校中一五位と新潟県勢としては、歴代最高順位だった。山岸は一区を走り、区間九位でタスキを繋いだ。
この活躍が箱根駅伝強豪校の監督の目に止まり、幾つかの大学から勧誘を受けた中で彼は東京農大を選んで箱根駅伝を走ることにした。
一九九〇年一月二日、三日開催された第六六回箱根駅伝を山岸は前年九位のシード校として一年生で三区を力走した。結果はシード権内の七位であった。
しかし、この年の東京農大は往路復路の総合順位で一二位となり、シード権を逃してしまった。
この年の一〇月陸上自衛隊立川駐屯地をスタート地点として行われた箱根駅伝予選会に出場し、予選会で見事一位となり、一九九一年一月二日、三日に行われる第六七回箱根駅伝本大会に臨んだ。
箱根駅伝では、『花の二区』に対して復路で最も距離の長い九区は『松の九区』と言われ、各大学はここにエース級を投入する事が通例となっていた。何故ならその九区は走りだけではなくレースの駆け引きと共にシード権争いの駆け引きなどの重大な要素も孕(はら)む区間なのである。そんな九区を力走した山岸はぎりぎりシード権内の一〇位でタスキを繋ぎ最終区のランナーにシード権獲得を託した。
そんな事もあって、この年の東京農大は総合順位七位でシード権を獲得した。翌年の一九九二年一月二日、三日開催された第六八回大会で山岸は一区を走り、この時もギリギリシード権内の一〇位でタスキを繋いだ。この年は、総合成績九位で辛うじてシード権を死守した。
一九九三年一月二日、三日第六九回箱根駅伝は山岸にとって最後の箱根となった四年生で七区を走った山岸は、会心の走りを見せ、五位でタスキを繋いだ。
しかし、最後の箱根となったこの年の総合順位は一二位となり、自身二回目となるシード権落ちを経験して、山岸の箱根駅伝は終わった。
こうして、大学生活の四年間を連続して箱根駅伝を走った山岸は、一区、三区、七区、九区と走った区間が全て異なった為、その走った四区間を繋ぎ合わせるとスタート地点の大手町から小田原までの区間約八七キロを走破していた。
大学四年生で箱根駅伝を走り終わると、同じく箱根を走った仲間たちは、それぞれ次のステップとして、実業団の陸上部に所属して、駅伝選手やフルマラソン選手へのステップアップを目指していた。
そんな中で山岸も今後の進路について悩んでいると、大学の監督が
「お前、フルマラソンに転向を考えてみたらどうだ?」とアドバイスしてくれた。
「えっ、フルマラソンですか?」と山岸が口にすると
「そうだ!お前は四年生で走った時が五位と自身で一番いい成績を収めた事を考えるとまだまだ伸びしろがある。それに箱根駅伝で『松の九区』と言われている一番駆け引きの激しい区間も経験した。フルマラソンには欠かせない要素だ。だからフルマラソンはお前と相性がいいんじゃないかと思う」と監督がフルマラソンに向いていると思う理由を口にした。これに対して山岸は
「確かに、箱根駅伝を初めて走った時が七位で二年生の時が一〇位、三年の時も一〇位で四年生の時は上位グループでの走りをキープして五位と自己ベストでした」と箱根駅伝を振り返った。
すると監督が
「日本の男子マラソンではオリンピックメダリストは未だ三人しかいないんだ。一九六四年の東京オリンピックで銅メダルを獲得した円谷選手、メキシコオリンピックで銀メダリストとなった君原選手、バルセロナオリンピックで銀メダルを獲得した森下選手の3人だ そして自衛隊体育学校は、オリンピックマラソン競技で初めてのメダリスト円谷選手を輩出した国営の名門アスリート養成機関なんだ。考えてみてはどうだ?」と言った。そして続けて
「自衛隊体育学校なら衣・食・住全て完備だ、地方出身のお前のような者には栄養管理、住環境といい申し分ないだろう。コーチやトレーナーの心配もいらないし・・・・」と言った。そう言われて山岸は
「つまり、練習に全力で集中できるって事ですね」と納得した様に言った。この言葉を受けて
「そうだ!その通りだ」と監督が頷きながら言った。
「前向きに考えてみます」と監督に告げ山岸は監督の下を後にした。
実業団を選んだ仲間などから話を聞いたりして色々考えた上で衣・食・住が全て無料で、万が一練習中に怪我をしても防衛医大で最先端の医療を無料で受ける事ができること等を考慮して監督の勧めを受けることにした。
この三日後、山岸は自衛隊体育学校へ進むことを監督に告げ推薦を願い出た。一九九三年四月、こうして山岸は大学卒業後、自衛隊体育学校でアスリート自衛官として社会人生活をスタートさせた。
そして臨んだ入校式の自衛隊体育学校校長として、山岸達、体育学校入校生に訓示したのは、ローマオリンピック重量挙げで銀メダル続く東京オリンピック、メキシコオリンピックの二大会連覇で金メダルを獲得した、、自衛官アスリートのレジェンド三宅義信陸将補であった。
フルマラソン転向後、山岸が目標としたのは三年後の一九九六年開催のアトランタオリンピック男子マラソン出場であった。
自衛隊体育学校で山岸は、トラックでの走り込みの他、手始めに箱根駅伝で走った区間とほぼ同じ距離のハーフマラソン大会にエントリーする事でレースでの駆け引きやスパートを掛けるタイミング等のブラッシュアップを図っていった。
そんなハーフマラソン大会では大学時代の箱根駅伝をライバルとして走った見覚えのある顔があった。そんな彼は後にアトランタオリンピックマラソン日本代表候補に選考された。
アトランタオリンピックが開催された一九九六年直近の日本では、フルマラソンのオリンピック出場資格としての条件は二時間二〇分以内の記録を安定して保持している事だった。
一九九六年開催のアトランタオリンピックでは、開会中にテロによる爆破事件が起き世界中から注目を集めた。
日本では、サッカーの日本代表がワールドカップ優勝国のブラジルを破って、『マイアミの奇跡』と話題になった。
そんな中でマラソンは、前回大会のバルセロナオリンピックで、女子マラソンで銀メダルを獲得した有森裕子選手に、金メダル獲得の期待で日本中が注目する事となった。
しかし結果は銅メダル獲得に終わった。同じくマラソンに出場した、日本人男子選手で最も上位の成績だった選手が二時間一七分二六秒の谷口浩美選手で結果は一九位、一緒に箱根を走った事のある顔見知りのライバルは九三位と振るわなかった。
惜しくもアトランタオリンピック男子マラソン日本代表選考に漏れた山岸は、シドニー五輪に目標をリセットして挑む事となった。
同時に山岸は、今回のアトランタオリンピック男子マラソンのメダリストのタイムに驚愕した。金メダリストのタイムは二時間一二分三六秒に対して、何と銀メダリストは僅か三秒差の二時間一二分三九秒、そして銅メダリストが二時間一二分四四秒という金メダリストと八秒という僅差だったのだ。
日本人最高位の一九位でゴールした谷口選手の二時間一七分二六秒とは五分もの差があるのだ。この結果を目の当たりにして、山岸は世界の壁の厚さをまざまざと実感した。
世界の強豪選手が、フルマラソンで二時間一〇分の壁を超える中、山岸はタイムの伸び悩みに苦しんでいた。
いかに世界の壁が厚いかを物語る例としては、日本人が優勝した事もあるボストン国際マラソンでは一九七九年の優勝タイムが二時間九分五五秒で、以来度々二時間一〇分を切るタイムが記録されていた。
国内で最も歴史のある別府大分毎日マラソンでも一九七八年宗茂選手が二時間九分〇五秒で二時間一〇分の壁を超えていた。そしてこの別府大分毎日マラソンの直近の最高タイムは二時間六分台である。
そんな中でフルマラソンの日本陸連公認レースでの山岸の自己ベストタイムは二時間一九分二三秒で二時間一〇分の壁には素人目にも程遠いいタイムだった。
そんな状況の中、自衛隊体育学校へ入校して五年目に山岸はアスリート人生にピリオドを打ち、父親の会社を継ぐ決心を下すのだった。
父親の会社は、地元のなめこやシメジ栽培農家等のJA農協観光のバスツアーや、かんぽの宿への団体旅行等で堅実で順風満帆な経営状況だったのだが、バブルの崩壊と郵政民営化等の社会情勢の大変革の波に飲み込まれていた。
そんな取引先の民営化や合併による統廃合により、地域のJA農協観光単独ではツアーを募る事ができなくなり、業績はつるべ落としの様に右肩下がりの状況となっていたのだった。
およそ一〇年ぶりに故郷で暮らす事になった山岸には、東京と全く異なる古里の景色や文化が輝いて見えた。
大都会東京で暮らしたことで、それまで見えなかった古里の価値あるものが輝いて見えた。
例えば日本三大薬湯と言われる『松之山温泉』は目と鼻の先にあり、同じく日本三大渓谷の一つである『清津峡』も直ぐ近くであった。
しかも清津峡は上信越高原国立公園内にあり、国立公園は、『世界に誇る景勝地』と定義されており、しかも清津峡の渓谷に見られる特徴的な柱状節理は国の天然記念物にまで指定された超レアな宝物だったのだ。
文化遺産としては、ノーベル文学賞を受賞した小説家『川端康成』が代表作となった『雪国』を執筆する為、三年間に亘って逗留したとされる越後湯沢の有名旅館は、山岸の旅行社のテリトリー内にある。
文豪で知られる吉川英治が『新・平家物語」を執筆するに当たり、構想に思いを馳せ、執筆作業をする為に、長期滞在したのが秋山郷にある坂巻温泉の一軒宿で、洞窟風呂がお気に入りだったというエピソードが残されている。
そして更にその秋山郷は、新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村とにまたがる中津川沿いの地域の総称で東を苗場山、西を鳥甲山に挟まれた山間地域で、日本の秘境一〇〇選の一つである。新潟県側に八つ、長野県側に五つの集落がある。(ネット情報より)
この秋山郷はその昔、源平合戦で敗れた平家の落人の村では?と噂された事もあったらしい。
もう一つ、山岸の会社の直ぐ傍にある長野県と新潟県の県境付近の川にかかる橋の上から概ね川の上流は『千曲川』と呼ばれ、主に下流の新潟県側からを『信濃川』と言うのだ。
これは日本でも非常に珍しく同一の一本の川が、長野県では『千曲川』と呼称され、新潟県に入った途端に、その呼称が『信濃川』と名称が変わる地点がこの付近なのだ。しかし、意外にこの事実は知られていなかった。
そして明治生まれで大正、昭和と生きた文豪であり、政治家としても活躍した代表作『徳川家康』で知られた山岡荘八も山岸の会社の営業テリトリーである新潟県魚沼市(小出)の出身である。
一〇年振りに故郷に帰った山岸は、古里の眩いばかりに魅力溢れる観光資源を再認識し始めていた。
世界に誇る景勝地という定義の国立公園内にある日本三大渓谷の『清津峡』、名湯番付で東の正横綱『草津温泉』と肩を並べる日本三大薬湯『松之山温泉』等の存在だ。
更に文化的遺産としてのノーベル文学賞作家が、その代表作を三年間逗留して執筆した温泉宿や、同じく歴史作家が長期滞在して、構想を練ったり、執筆に当たった秘湯の湯宿等を、どうやって全国に発信していくかが課題だと山岸は確信した。
併せて、JA農協観光のバスツアーやかんぽの宿へのバスツアー等の売り上げの落ち込みを新たな企画とバスツアーへの取り組みによって、早急にカバーしないと会社存続の危機になりかねなかった。
そこで山岸は自衛官アスリートだった経歴を活かして、自衛官募集相談員、自衛官OB会である隊友会や自衛隊協力会員等に積極的に加入し、先ずは自衛官募集相談員の部隊研修等への移動を引き受けるなどして、会社が所有するバスの稼働率を確保していった。
その他に抜群の人気を博していた自衛隊富士総合火力演習のバスツアーや、三年に一度東京練馬駐屯地で行われる陸上自衛隊観閲式見学ツアー、各地の航空自衛隊基地で行われる航空自衛隊の航空祭ツアー等を企画実施する事で売り上げの確保を図っていった。
こうして会社の売り上げアップを自身のキャリアを活かして安定させた山岸は次なる課題である、観光資源の魅力の『発信』に挑んだ。
そこで山岸は手始めに『森宮交通』という名のホームページを立ち上げ発信を開始していった。
山岸は、JR線の駅で客待ちしても客が一日一人や二人の時があるタクシーの内の二台を、『温泉タクシー』と銘打って、四時間の貸し切り制にした。
その上でプレミアムサービスに対応する為、山岸の持つ温泉ソムリエの資格を社員達にも取得して貰い、この貸し切りタクシーの運転に当たらせた。
そもそも温泉ソムリエとは温泉の知識を証明する民間資格で二〇〇二年新潟県の赤倉温泉の旅館経営者の発案により誕生した資格であった。(ネット情報より)
資格取得に当たっては、温泉ソムリエ認定講座を受講し、五〇問に及ぶ認定試験に合格する事で温泉ソムリエの認定証を取得できる事になっている。
この温泉タクシーで巡る秋山郷には切明温泉という秘湯があり、中津川の河原をスコップで掘って、自分だけの温泉に浸る事ができる魅力を秘めていた。
また屋敷温泉という秋山郷で唯一の硫黄泉は、源泉かけ流しで温泉の色が乳白色に変ったり、エメラルドグリーンに変化したりと温泉の色まで楽しめる秘湯である。
温泉タクシーは、新潟県と長野県にまたがる秋山郷の八つの秘湯を巡るツアーで、それぞれの温泉の泉質などについては、温泉ソムリエの資格に裏打ちされた確かな知識をもとに、解説して貰えるサービス付きなのである。
秘湯マニアや温泉好き四人で乗車すれば、一人あたり八、二〇〇円、入浴料込みでも一〇、〇〇〇円と、コストパフォーマンス抜群で温泉ソムリエのガイド付き秘湯巡りが楽しめるのだ。
これまで地方の旅行会社は発地型観光と言われるツアーを募っては、バスで東京ドーム等へ野球観戦に連れて行って、帰って来るという様なスタイルの観光が主であった。
他に例を挙げるならば、両国の国技館への相撲観戦や宝塚劇場への観劇、歌舞伎座への観劇などが発地型観光と言える。
これに対して山岸の目指す観光は、着地型観光と言って、北陸新幹線飯山駅でバスに乗って貰い、長野県栄村と新潟県津南町にまたがる秋山郷を散策して、帰りは上越新幹線の越後湯沢駅から東京へ帰って行くという様な日帰り旅行で、北陸新幹線と上越新幹線の乗車を堪能して貰い、日本の秘境一〇〇選に登録されている秋山郷を旅するという着地型の観光ツアーである。
他には二〇〇〇年から三年に一度開催される『大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ』が有名で来所者数は五〇万人を超え、経済波及効果は五六億円を超える(ネット検索より)と言われる一大イベントが定着しつつあった。
もう一つ山岸が関わっているイベントとして『津南雪祭り』のスカイランタンがある。夜空にランタンを打ち上げるのは、台湾のランタンフェスティバルが世界的に有名だが、津南の雪まつりでもランタンを空に飛ばすようになった。
そのきっかけはあの東日本大震災と直後に起こった最大震度六強の長野県北部地震の被災者への鎮魂の祈りと復興への願いを込め、大震災の翌年の二〇一二年から、最初は町の有志が飛ばし始めたと聞いていた。
それが今では、雪祭りに集まったツアー客も参加して、二、〇〇〇個余りのランタンを一斉に空高く舞い上がらせる姿は壮大でとてもロマンチックなのである。
その為、女性客に人気があるツアーで、山岸はこのスカイランタンに最大一、五〇〇人を全国から集めた実績を持っていた。
それはこれまで山岸が力を注いできた発信力のなせる業であった。漸く軌道に乗ってきたスカイランタンではあったが二〇一九年末に起きたあのコロナ禍によって、三年間中止となってしまったのだ。
山岸が津南雪祭りスカイランタンに思い入れがあったのは、長野県北部地震で自身も被災し、会社の社屋にも被害が及んだが、自宅を被災した社員と一丸となって復興を誓い合って居た中、JR飯山線も崖崩れや土砂災害で運行できなくなったため、JRは森宮交通に振り替え輸送を依頼してくれた。
そのお陰で飯山線が全面復旧するまでの振り替え輸送業務を担う事になり、倒産の危機を免れたという経緯があった。地域密着型の経営が功を奏したともいえる。
そんな事から山岸は、ともすると傍目からはライバルとも思われがちなJRとは、互いに協力する事で復興を果たした事から、共存共栄の道を探る為、温泉タクシーの出発地点をJR森宮野原駅として動画を作成していた。
このJR森宮野原駅は、ある日本一の記録を保持していた。
それは一九四五年(昭和二〇年)二月一二日に七、八五メートルの積雪を記録し、JR東日本管内にある駅の最高積雪地点となっていた。
山岸は、故郷へ帰郷して以降二〇〇四年の中越地震、二〇〇七年の中越沖地震、二〇一一年の長野県北部地震と一〇年間の間に三回もの大震災に見舞われていた。その為、社屋のフロアには一部、微かではあるが今もそれらの大震災の爪痕が残っている。そんな自身の体験を基にスカイランタンとは向き合っていたのである。
アスリート時代の彼の前には『タイム』という越え難い大きな壁が立ちはだかったが、今度は新潟県と長野県の県境で旅行業を営む山岸に『行政の壁』が立ちはだかった。
国はコロナ禍からの経済の立て直しとして全国旅行支援などの施策で旅行業者を支援してくれた。その中で行政の壁が山岸の前に立ちはだかった。
山岸の温泉タクシーの目的地『秋山郷』は、新潟県津南町と長野県栄村とにまたがる中津川沿いの地域の総称で、東を苗場山、西を鳥甲山に挟まれた山間地域である。
新潟県側に八つ、長野県側に五つの集落があり、日本の秘境一〇〇選の内の一つなのだ、伝説では源平合戦で源頼朝に敗れた平家が落ち延びた里という歴史ロマン溢れる地なのである。
国の旅行支援は、最終的に国と地方自治体が連携して行う事となった為、ここでその行政の壁という問題が生じるのだ。新潟県側八つの集落へは新潟県の旅行支援が対象となり、長野県側の五つの集落には長野県の旅行支援が実施されることになる。
旅行支援の内容が新潟県と長野県が同じなら何も問題ないのだが、仮に補助されるクーポン券が、一方が五、〇〇〇円なのに対してもう一方が三、〇〇〇円だとしたら同じ秋山郷を旅行しているのになぜ?!とお客様に思われてしまう恐れがあった。
そこで山岸が行政に掛け合うと、『新潟県の予算を長野県には使えません』長野県は『長野県の予算を新潟県の為には使えません』これが行政のスタンスであった。県境をまたぐがゆえの行政の壁であった。
この時山岸の頭をかすめた思いが、県をまたぎながら一大ツアーとなった『萩・津和野ツアー』を県の役人は知らないのかなぁと思った。萩は萩焼で有名な山口県にあり、松下村塾という幕末の志士たちが師事した吉田松陰の叔父の私塾がある。
津和野は島根県の小さな町のひとつながら山陰の小京都の異名を持つ街並みで、重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、この町を練り歩く祇園祭の鷺舞は国の重要無形民俗文化財に指定されている。(ネット資料より)
二〇一五年「明治の産業革命遺産」の一部として「松下村塾」等が世界文化遺産登録された。津和野町は山陰の小京都として日本文化遺産に登録されている。
一大ブームは去ったものの未だに『萩・津和野ツアー』と検索すると二、六一〇万アクセスと表示された事に驚愕した。
この時山岸は血税を使って支援をするなら、観光する側の視点で支援を考えるべきという当たり前のことを痛感した。山岸は行政の壁は必ず超えるか打ち破ってやるという決意の下、発信力に磨きをかける決意を新たにした。
山岸が観光資源の魅力の発信ツールとして会社のホームページを充実させていく中で検索数も三〇〇万アクセス台と順調に伸びていった。
そんな中、東京に本社を置く民放テレビのキー局の目に止まり、二つのキー局から直接取材依頼が舞い込んだ。
タクシーの行灯に風呂桶と温泉マークをあしらったことなどが映像映えする事と、温泉ソムリエが案内する事がユニークだと評価されたようだった。
入念な打ち合わせの結果取材日時は、取材クルーが雪道の運転に不慣れな事を考慮して、雪が完全に消える五月下旬の二四日水曜日に設定した。東京から車で来る事を考慮し待ち合わせは一四時半にJR飯山線森宮野原駅とした。
山岸が約束の時間一〇分前に駅前に出迎えに着くとその五分後に東京のテレビ局の取材クルーが到着した。ワンボックスカーから飛び出してきたのはこの取材クルーの責任者の田所だった。山岸を見つけるなり近づいて来て名刺を差し出した。そこにはAテレビディレクターと記されていた。
「ディレクターの田所信也です。この度はお世話になります。何卒宜しくお願い致します」と言って深々と頭を下げた。その田所に少し遅れ一人の女性とテレビカメラを携えた若者が近づいてきた。
近づいてきた女性レポーター門田麗子とカメラマンの沖田聡一とも同じ様に名刺交換した後、ディレクターの田所に向かって山岸は
「せっかくですから、この森宮野原駅の日本一からご案内させて貰えますか?」と問い掛けた。すると田所が驚いた顔をして
「えっ?この駅が何か日本一なのですか?」と聞いてきたので三人を日本の最高積雪地点と書かれた標柱へと案内した。すると田所が
「あれ?七メール八五センチってありますけど、青森県の酸ヶ湯は一一メートルと聞いた事がありますが・・・」と首を傾げながら言った。
「標柱をよく見て下さい。JR日本最高積雪地点と書いてあるように、JRの駅に積もった積雪の日本一という事です」と山岸が解説すると「なるほどー」と三人同時に頷いて声を発した。
「日本一に変わりはありませんね、JR管内日本一という事ですね」と門田麗子が納得したので山岸は
「その通りです」と答えた。
この後山岸の運転する温泉タクシーに三人が乗り込み、残りのクルーは山岸のタクシーに追走する形で取材を開始した。
車に乗り込んだ田所が山岸に向かって
「他にもこの地域ならではの珍しい物や珍しい場所があったら是非お教え願えますか?」と言ってきたので山岸は例の県境近くの橋へ三人を案内した。橋の真ん中付近でハザードランプを点灯させて車を止めると、三人に車から降りるように促し解説を始めた。
「この橋が長野県と新潟県の県境付近となります。そして今、眼下に見えている川は概ねこの橋から上流は『千曲川』と呼ばれ、同じくこの橋の下から主に下流を新潟県では『信濃川』と呼ばれ川の名称が変わる全国でも珍しい地点です」と解説した。すると田所ディレクターが女性レポーターの門田に指示して、山岸が解説した通りにマイクで話すよう指示し、それをカメラに収めた。
その後、車に乗り込んだ田所は興奮気味に
「いやー一本の川がこの付近を境に名前を変えるなんてこの橋は凄い橋ですね、きっと視聴者受けすると思います。他にも珍しい場所があるならこの際、余すところなく取材させて下さい」と言った。
それを受け山岸が
「今晩はこちらにお泊りですか?」と訊ねると
「はい、未だ宿は取っていないのですが何処か良い宿をご紹介頂けますか?」と言ってきた。これに山岸は
「その前に田所さんは草津温泉と有馬温泉には宿泊した事はおありですか?」と訊ねると
「ええ、両方ともあります。それが何か?」
ちょっと訝しそうに聞いてきた。
「そうですか、日本三大薬湯の内の二つはお入りになっていたのですね」と言って置いて
「もう一つの日本三大薬湯、松之山温泉にはお入りになった事はありますか?」と問い掛けた。すると田所が
「えっ、日本三大薬湯?松之山温泉ってこの近くにあるんですか?」と山岸が狙った通りのリアクションを見せた。
「あります。ここから近いですが先に日本三大渓谷の一つである清津峡をご案内します」と山岸が言うと田所が
「えっ、日本三大渓谷もこの近くなのですか?」と驚きながら言ってきた。
「清津峡は、上信越高原国立公園内に位置し清津峡の柱状節理は国の天然記念物に指定されています」と山岸は解説した。
「ひょっとして、黒部渓谷も日本三大渓谷の一つですか?」と門田麗子が訊ねてきたので山岸は
「正解です!カメラマンさんはもう一つの三大渓谷ご存知ですか?」と沖田に話を振ってみた。
「いいえ、知りません」と返してきた。これを受け山岸は
「先程門田さんが仰った黒部渓谷は中部山岳国立公園内に位置しています。そして三つ目の三大渓谷は吉野熊野国立公園内にあり、所在地は三重県大台町にあり大杉谷と呼ばれています。この渓谷の最大の特徴は標高差一、二〇〇メートルの深いV字型の谷と大小さまざまな滝が有名です」と解説した。
車内でそんな会話をしているうちに目的地の清津峡に到着した。車を降り山岸が清津峡渓谷トンネルを案内すると門田麗子が「此処だったのかー」と独り言のように呟いた。それはトンネルの奥のパノラマステーションという水鏡を見た時だった。すると田所ディレクターがもう一度トンネルの入り口に戻って、カメラを回してレポートする様に指示した。
山岸はこの間に親しくしている松之山温泉の老舗旅館の女将に電話して、取材クルーの今夜の宿を手配したのであった。
「流石は日本三大渓谷ですね、清津峡の誕生が五〇〇万年前までさかのぼるなんて、凄く歴史ロマン溢れる場所なんですね。驚きました」と田所が説明書きを読んで興奮して話してきた。
そんな田所に
「皆さんがお泊りになる今夜の宿を手配して置きました。先程お話した日本三大薬湯の松之山温泉です。
この温泉は一〇〇〇万年前に地中に閉じ込められた海の水、化石海水が温泉として湧き出ている為、塩分濃度が高く、戦前などはこの温泉水から塩を精製していた歴史があります」と解説すると感激した表情で田所が
「えっ、我々はたった一日で日本三大渓谷と日本三大薬湯を体験できるのですか?ちょっと贅沢過ぎませんか?」と冗談交じりに言ってきた。
「私のテリトリーには日本三大や日本五〇選や一〇〇選といった観光資源がゴロゴロしているんです。そういう意味からはとても贅沢な所かもしれません」と山岸は自信たっぷりに答えた。
そしてこの後、一行は本来の取材目的だった温泉タクシーの正規コースとなっている秋山郷の温泉巡りを行う為、秋山郷へ車を走らせた。
秋山郷には全部で一一の秘湯があり、その中には平家の隠し湯とされる秋山郷唯一の硫黄泉や、河原に湧き出す温泉などユニークな温泉があり、取材班の期待に大いに応えていた。
ディレクターも女性レポーターもカメラマンも手応え十分な取材ができてとても満足そうな顔をしていた。
こうして秋山郷の取材を終えた取材クルーは山岸の先導で今夜の宿、松之山温泉の老舗旅館ちとせへと向かった。
女将に挨拶して一行を宜しくと頼み田所に
「明日、一〇時にお見送りに参ります」と言い残して山岸は帰って行った。
翌朝、山岸が見送りの為、松之山温泉の旅館に向かうと予想通り、取材クルー達は日本三大薬湯松之山温泉を取材レポートしていた。
山岸を見つけた田所が
「山岸社長、とってもいい温泉でした。流石日本三大薬湯です」と絶賛した。
「お気に召して頂けて光栄です」と山岸が言うと
「山岸社長、今回の取材した内容は盛り沢山でとても一回の放送枠には収まりません。二回枠に分け、特番として放送する様になるかもしれませんが了解して頂けますか?」と問い掛けてきた。山岸は
「全く問題ありません。観光資源の魅力は、先ずは知って頂く事から始まります」と答えると
「ありがとうございます」と言い残して、レポーターの下へと駆け寄って行き、暫くして山岸の下へ戻ってきた田所は
「確か他の局からもオファーがあったと仰っていませんでしたか?今回ですべて出し切って大丈夫ですか?」と心配してくれた。これに対して山岸は
「ご心配無用です。先ほども言った様に私としてはテレビで放送して頂く事に意味がある訳で、打算をもって小出しにする様な考えはまったくありません」ときっぱりと言った。
すると田所が
「分かりました。社長のそのお気持ちに最大限お応えして、今回取材させて頂いたものを可能な限り全国へ向けて放送する事をお約束します」と言ってくれた。
こうして取材された番組が全国放送されると反響が凄かった。温泉タクシーの問い合わせは通常の五、六倍に跳ね上がった。そしてホームページ『森宮交通』の検索数はテレビ放送後一〇〇万台の大台に乗ってきた。
この頃になると既存の路線バスの路線廃止問題が起き、地域コミューターバスの代替運行を担って欲しいという依頼が森宮交通に寄せられた。
同じように小中学校の統合に伴って、広域にわたってのスクールバスの運行を引き受けて欲しいと自治体から要請された。
山岸は地域密着型の企業としてこういった依頼や要請には極力応えていった。それは長野北部地震の際、被災したJR飯山線の復旧までの間、代替交通機関として公共交通を担った経験からこれらには使命感を持って臨んでいたからである。
そんな山岸の下に、前回とは別の東京のキー局から取材のオファーがあり、今回はホームページに乗せていた日本一美しいと言われるカヤの平高原のブナの森や、雑魚川渓谷の絶景滝巡りの旅や、雑魚川渓谷タフグリーントレッキングといったアウトドアを中心とした取材との事だった。
今度のBテレビ取材クルーは僅か三人でディレクター、レポーターの女性タレントさん、そのマネージャーの三人だった。
今回は、女性タレントのマネージャー吉岡さんは森宮野原で待機しているとの事だった。
山岸と一緒にトレッキングするのは、Bテレビ番組ディレクターの久住さんとレポーターを兼務する女性タレントの丘久美子さんで、四K対応の超小型ハンディカメラを使って、丘さんが自撮りの様な感じで、トレッキングしながら臨場感いっぱいに撮影するとの事だった。
この日、山岸が用意したコースは雑魚川渓谷の絶景滝巡りとカヤの平高原の『日本一美しいブナの森』と呼ばれているブナの原生林のトレッキングコースであった。
秋晴れの晴天の中を三人は山岸の車で、カヤの平高原への登山道入り口へと向かった。車中では山岸のこんな解説があった。
「カヤの平高原は昭和の頃には、長野県の軽井沢と並ぶ避暑地として有名だった志賀高原の北部の標高一、五〇〇メートル付近に広がる火山性高原です。
火山の噴出物などの影響で植生豊かな土地となり、中でも圧巻なのが樹齢二〇〇年から三〇〇年のブナの原生林です。
そんなことから『日本一美しいブナの森』と言われています」とこれから向かうカヤの平高原のブナの森を解説した。
登山道入り口で車を降り歩き始めて一時間ほどでそのブナの森に辿り着いた。すると
「はぁー、樹齢二〇〇年から三〇〇年のブナの大木って確かに圧巻ですね」と丘さんが声を上げた。そこで山岸が久住ディレクターに
「このブナの木、一本にどれくらいの保水力があると思いますか?」と質問すると
「えっ、水ですか?全く見当も付きませんがドラム缶一本分とか?」といい加減に答えると
「およそ八トンくらいだろうと言われています。ドラム缶換算だと四〇本分になります」と山岸が平然と答えたのに対して
「えっ、え、八トンですか!・・・たった一本の木で?」とにわかには信じ難いという顔をして応えた。
「うそー」と丘も声を上げる中、山岸は
「嘘じゃありません。だからブナの森を別名『緑のダム』と称する事もあるくらいなのです」と解説した。こんな風に所々で山岸が解説を加えながらカヤの平高原のトレッキングを終えた。続いて三人は雑魚川渓谷のトレッキングをする為、再び車で移動した。
トレッキングを始める前に山岸は二人に
「渓谷沿いのトレッキングは、ブナの森よりも滑りやすいので歩行する際は十分注意して下さい。万が一滑落すると岩場なので命の危険さえありますから」と事前に十分注意して歩く様にと伝えた。
歩き始めると直ぐに滝が現れた。そこで山岸が
「この雑魚川渓谷は変化に富んだ滝の宝庫で三段の滝や大滝等、滝マニアの間ではとても人気がある渓谷なのです」と解説を入れた。するとカメラマンを兼務する丘リポーターが
「この川幅いっぱいに広がった小さな段々の滝も、間近で見る事ができて見応えがあります」とナレーションを入れていた。頃合いを見計らって山岸が
「この雑魚川渓谷は『日本の渓谷百選』の中のひとつに数えられています。この近くには日本三大渓谷に数えられる清津峡がありますが、私にとってはこの雑魚川渓谷の方が魅力的に思えます。但しこれはあくまでも私の感想にすぎませんが・・・」と清津峡を引き合いに思っている事まで吐露してみせた。
山岸はレポーターの丘さんとディレクターの久住さんが上信越高原国立公園内の世界に誇れる景勝、ブナの森や雑魚川渓谷に魅了された事で彼らがカメラに収めた映像によって、狙い通り山岸に代わって日本全国の視聴者にその素晴らしさを伝えてくれると信じていた。
ブナの森にしても雑魚川渓谷にしても国立公園に指定されていたお陰で、開発などから守られ、手つかずの自然がありのまま残されているので、訪れる人々に感動と癒しの空間を与え続けてくれているのだ。
一方で先日取材してくれたAテレビは、日本三大薬湯のひとつである松之山温泉と、文豪吉川英治が長期逗留した平家の落人伝説のある、秋山郷の魅力を余すところなくテレビ放映によって全国の茶の間に届けてくれた。
こうして二つのテレビ局のお陰で、山岸がホームページで伝えきれなかった、上信越高原国立公園の自然の持つ魅力と、日本三大薬湯のひとつなのに今一つ知名度のない松之山温泉や、文豪吉川英治が愛した秋山郷の魅力を、テレビとネットによって全国へ向けて発信できたことは、大きな成果だった。
私たちにとって、「旅」や「旅行」はとても身近な存在なのではないだろうか?小学生から修学旅行で一泊二日の旅行を経験し、中学生では、二泊三日の旅行を体験し、高校では学校によっては、海外へ修学旅行に出掛けている。
そして、多くの大学生が大学で知り合った仲間同士で卒業旅行に行っている。就職すると職場旅行、ちょっと異論がありそうだが、出張旅行、研修旅行等という場合もある。
結婚式を挙げると新婚旅行(ハネムーン)に国内外へ旅行する。お正月やお盆には故郷への帰省旅行や家族旅行をする。
時には恋に破れて、「傷心旅行」というのもあるだろう。また勝手気ままに「一人旅」をする事もあるだろう。
気の合った仲間と有名ゴルフコースへの「ゴルフツアー」に出掛け、あるいは女性数人での「女子旅」もある。
他にも有名俳優と女優のポスターで話題になった「フルムーン旅行」や「還暦祝いの旅行」「古希のお祝いの旅行」「喜寿のお祝い旅行」さらに長寿社会なので「米寿のお祝い旅行」等もある。
他にも「お伊勢参り旅行」や「初詣旅行」等宗教関連の旅行まである。
ざっと列記した様に人生の節々で人は「旅」や「旅行」をしているのだ。そこでちょっと提案なのだが例えば家族旅行にテーマを設けてはどうだろう?例えば
我が家の家族旅行のテーマは「日本の世界文化遺産巡り」と設定して、広島県なら「原爆ドーム」と「厳島神社」を訪ね、ちょっと足を延ばして島根県の「石見銀山」にも行くと日本にある世界文化遺産二〇の中の三つを訪ねたことになり、あと一七を訪ねれば日本にある世界文化遺産を全て訪ねられるのだ。いかがだろう?
もっと手軽な目標が日本三大薬湯、「草津温泉」「有馬温泉」「松之山温泉」の制覇か日本三大渓谷「黒部渓谷」「清津峡」「大杉谷」ではないかと思う。
花火好きなら、「全国花火競技大会」(秋田県大曲)、土浦全国花火競技大会(茨城県土浦)、長岡まつり大花火大会(新潟県長岡市)の日本三大大花火大会観覧なんてどうだろう?
しぶい所では、日本三大庭園巡りなら「兼六園」(石川県金沢市)、後楽園(岡山県岡山市)、偕楽園(栃木県水戸市)なんてどうだろう。
雪祭りが好きな人には日本三大雪祭り「十日町雪まつり」(新潟県十日町市)、「さっぽろ雪まつり」(北海道札幌市)、そして南魚沼市雪祭り(新潟県南魚沼市)となる。
日本三大夏祭りなら神田祭(東京都)、祇園祭(京都府)。天神祭り(大阪府)。
もっとヘビーなテーマを好む人には日本の名橋一〇〇選なんてどうだろう?北海道と東北だけで一〇あり、関東地方には一八、中部地方にも一八、関西地方には二三、中国地方に九、四国地方に八、九州沖縄地方に一三、それぞれにある。
今年二〇二四年は、『箱根駅伝』一〇〇回大会である。山岸は自分が箱根駅伝で走った区間を訪ねるというテーマで「旅」を何時かしてみたいと思っている。
「旅」や「旅行」は人の人生に潤いを与え楽しい思い出を作ってくれる傍らで、公共交通が次々と廃線となっていく地域で踏ん張って会社を存続させる事が、地域交通というライフラインを守る事ができるという使命感を胸に秘めて日々奮闘している山岸は、そんな人生の潤いや素敵な思い出作りと地域のライフラインとして森宮交通が少しでも貢献できたならと、日々旅行会社の社長として「旅」「旅行」と向き合っている。
名称 | |
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設立 | 昭和47年7月4日 |
業種 |
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資本金 | 4,100万円 |
本社所在地 | 〒389-2702 長野県下水内郡栄村北信3475-1 |
連絡先 |
TEL 0269-87-2736 |
代表取締役 | 山岸 博之 |
主要取引銀行 |
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関連会社 | 津南観光株式会社(田中温泉しなの荘) |
加盟団体 |
昭和47年 6月22日 | 一般乗用旅客自動車運送事業免許 (中型タクシー2台) |
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昭和47年 7月 1日 | 資本金260万円で営業開始 |
昭和51年11月12日 | 一般貸切旅客自動車運送事業 事業免許申請 資本金426万円に増資 |
昭和53年 4月19日 | 同上免許 資本金586万円に増資 |
昭和53年 7月 1日 | 同上マイクロバス2台で営業開始 |
昭和54年 5月31日 | 資本金706万円に増資 |
昭和55年 2月 1日 | 国内旅行業開始 長野県知事登録219号 |
昭和57年12月20日 | 本社現在地に移転 資本金1506万円に増資 |
昭和62年 9月10日 | 本社車庫 車両増車のため新築 |
平成元年 6月 1日 | (有)森宮観光豊野営業所開設 (現長野県長野市豊野) |
平成 2年 5月 1日 | 豊野営業所増員により本格的に営業開始 |
平成 3年12月25日 | 車庫(新潟県中魚沼郡津南町上郷子種) 大型車導入のため新築 |
平成 4年 5月 1日 | 資本金4110万円に増資 |
平成 4年 7月24日 | 20周年式典開催(会場グリーンピア津南) |
平成 7年 3月 | 豊野営業所閉鎖 |
平成10年 1月 | 森宮観光を森宮交通に合併 国内旅行業 長野県知事登録2-396号に変更 |
平成10年 4月30日 | 最優秀事業所 長野県警察本部長表彰 |
平成11年 3月 1日 | 自社企画旅行「ゆうあいツアー」を開始 現在登録客数4000余名 |
平成12年 2月26日 | 福祉タクシー導入(日産クルー) |
平成12年 4月30日 | 最優秀事業所 長野県警察本部長表彰 |
平成13年10月16日 | 「ゆうあいツアー」商標登録申請 |
平成15年 2月 7日 | 「ゆうあいツアー」商標登録認可 |
平成17年 4月29日 | 新潟県中魚沼郡津南町大割野に 森宮観光津南営業所オープン |
平成18年 4月21日 | 一般貸切旅客運送事業 営業区域を長野県内、新潟県十日町市、 中魚沼群津南町に拡大を認可される |
平成19年 4月 1日 | 栄村役場 村内巡回デマンド交通 「かたくり号」運行開始 |
平成20年 4月 1日 | 一般乗合旅客運送事業許可 |
〒389-2702 長野県栄村北信3475-1
〒949-8124 新潟県中魚沼郡津南町大字上郷小種新田389